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読書記録:朝鮮の公務員はどのように暮らしたのか? _ 公務員をどのように選んだのか?

科挙制度は、958年、高麗の第4代王・光宗が双冀の提案を受けて、初めて実施した。最初は、選抜過程が比較的単純だったが、官僚制が整備されて科挙が重要視され、それにより、複雑な規定が一つずつ設けられた。特に、朝鮮時代になるにつれて、科挙制度はより体系的に施行された。


朝鮮時代の科挙には、文科、武科、雑科があった。文科には、予備試験のような小科が含まれており、小科はさらに、生員試と進士試に分けられた。雑科には、訳科(通訳)、医科(医術)、陰陽科(天文地理)、律科(法律)があった。訳科に合格すれば司訳院で訳官として生活し、医科に通過すれば内医院や恵民署などで働いた。陰陽科の合格者は観象監に勤務し、律科の場合は刑曹で働いた。社会の雰囲気や経済的な負担により、自然と文科と武科には両班たちが受験し、雑科には主に中人と庶孼(庶子とその子孫)が受験した。雑科は、固有の専門的な性格により、ある家門が代々働く場合が多かった。


朝鮮時代の文科は、儒教の経典を身につけ、儒学の理念を実践する人材を登用するための試験だったが、経典に長けているだけでは及第するのが難しかった。文科は作文と教育を担当する官僚を選抜する試験なので、作文の比重が高かった。なので、文科に及第するためには経典だけでなく、歴史や制度、文化などに対する幅広い理解をもとに決められた形式に合わせて、文章を作ることができる資質も持ち合わせなければならない。

朝鮮時代の官職のうち、国王の文書を担当する芸文館や外交文書を担当する承文院、学術諮問や書籍の出版の管理を担当する弘文館、実録を編纂する春秋館などは、幅広い学術的経綸と文章力が必要なので、全て科挙に合格した文官にのみ任命された。


両班たちが主に受験した試験は、生員進士試(小科)と文科(大科)だった。俗に小科および司馬試と呼ばれる生員進士試は、一種の予備試験として定員は各100名だった。正式な科挙ではないので、順位の中に入っても、合格にはならず、入格と呼ばれた。生員試は儒教経典の理解度を、進士試は文章能力を主に試験した。なので、限定された教材と範囲から出題される生員試は、田舎の両班たちに有利であり、豊かな見解と眼識、素晴らしい文章力が要求された進士試は、ソウルの両班たちに有利だった。生員進士試に入格しても、すぐに官職につけるわけではなかったが、儒教社会で両班知識人としての身分を維持するには十分に効果的で、士人(ソンビ)たちは試験に熱心に挑戦した。その結果、生員進士試の場合、50対1の競争力だったという。

 

②原則的には良民(平民) 以上なら誰でも科挙を受験できた。しかし、実質的には厳然として差別が存在した。小科には四学や郷校出身、そして正5品以下の下級官吏たちが、大科には小科に入格した生員や進士、成均館の儒生、正3品堂下官以下の官吏が受験可能だった。


朝鮮の基本法典である『経国大典』には科挙を受験できない者が規定されていた。罪を犯し、官職任命が永久に遮断された人、賄賂をもらったり、財物を横領した官吏の息子、再婚した婦女子の息子や孫、庶孼(庶子とその子孫)の子孫は文科を受験できなかった。婦女子が再婚できないと規定した法はなかったが、再婚した婦女子の息子と孫の科挙受験を制限するという規定が暗黙的に再婚禁止法として社会的な効力を発揮した。また、妾の子孫である庶孼も官職任用で大変な不利益を被った。賎民たちには科挙試験の受験が未然に封鎖されており、生計に責任を持たなければならない平民たちも経済的・時間的理由で事実上、挑戦が難しかった。


*朝鮮時代の科挙試験には、予備試験の一種である小科と本試験に該当する大科があった。小科に入格した人は文官の場合は「進士」、武官の場合は「先達」と呼ばれ、彼らに渡された合格証は白色だったので白牌と呼ばれた。

 

③朝鮮時代に官職につく方法は、科挙、薦挙(推薦)、蔭敍(家門に基準を置いた登用)などの3種類の制度があったが、その中でも最も重要だったのはやはり科挙であり、科挙の核心はなんといっても文科であった。文科は、初試、覆試、殿試の3回の試験を経ねばならなかった。一般的に初試は9月初めに、成均館、ソウル、地方など全国で同時に実施され、その翌年の春にソウルで、成均館50名、ソウル40名、地方150名からなる初試入格者240名を対象に覆試が施行され、33名の合格者を選抜した。殿試は、この33名を対象に、宮殿で王が直接参席するなか、主に当時の政治状況や国民生活に関連する対策を尋ね、順位を決める最終試験だった。合格か否かを決定するのではなく、等級を決めるための試験だったので、特別に不正がない限り、脱落させなかった。

合格者は成績順に名前と人的事項を記録したが、1等から33等までの合格者を甲科・乙科・丙科に3等分し、甲科には3名、乙科には7名、残りの23名は丙科に割り当てられた。すなわち、甲科1等が掌苑(掌苑署の正六品の官位)であり、乙科1等は4等であり、兵科1等は全体の11等に該当した。

 

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④朝鮮の科挙は、式年試と呼ばれる定期試験と別試、謁聖試、春塘台試などのような不定期試験に分けられた。定期試験は3年ごとの1〜5月に一度ずつ実施されたが、十二支の子、卯、午、酉の干支が入っている式年に行う試験で、式年試と呼ばれた。不定期試験は、王の即位や皇太子の誕生など、国の慶事がある時に随時施行された。不定期試験には、王の即位のような国に大きな慶事がある時に実施される増広試、王が成均館の文廟に参拝した後に成均館の儒生を対象に実施した謁聖試、国の慶事がある時や丙の年に実施された別試、学問奨励目的で行われた製述(詩や文を作ること)試験である庭試、大小の慶事があったり、重大事がある時に王が昌慶宮の春塘台に親臨して実施される文武科の試験である春塘台試などがある。

各種、不定期試験である別試は平均7ヶ月に1回ずつ、ソウルで主に開かれたため、成均館の儒生とソウル居住者たちに特に有利だった。さらに、別試はたった一回の試験で当落が決定する場合が大部分だったので、式年試よりも相対的に合格しやすいという雰囲気が湧き上がり、もしかするとという気持ちで受験する人々も多かったという。


朝鮮中期に入ってから、科挙試験は個人戦ではなく、団体戦の様式をとるようになった。儒生一人で試験を受けるのではなく、何人かでチームを構成する「接」が誕生したのだ。接は最小単位が3人だった。まず、科挙出題版の前の席を取るために、席争いの先鋒を担った先接人がいたのだが、体格が良く、素早い人々だった。彼らは試験の数日前から領域を表示する杭や大きな日傘を持って、試験場の前に陣を取った。何日間か徹夜して席を取り、試験当日の朝、門が開くと狂ったように試験場に飛び入った。この時、他の先接人と揉み合いが起こったりしたが、これを争接という。もし倒れたら、後ろから来た人たちに踏まれて死ぬこともあり、手足が折れることもある危険なことであった。このように熾烈な席争いをした理由は、問題用紙を配られなかったからだ。なので問題がよく見える出題版の前に座るのが絶対的に有利だった。激烈な揉み合いのすえ、先接人が先に席を取ると、後から来た写手(文章などを書き写す人)と巨擘(学識の優れた人)が答案用紙を作成した。巨擘は代理試験者で、写手は綺麗な書体で文字を書く人だった。すなわち、先接人がいい席を取り、巨擘が問題を解き、写手が答案用紙を作成するという幻のチームプレイだった。

 

 

 

 

 

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